真夏の夜の夢

2025年06月20日

早いもので、明日はもう夏至の日。

夏至と言えば、思い出すのがシェイクスピア初期の傑作『真夏の夜の夢』。夏至の頃にその力が増すという魔法の花のエキスを用いた、間違いに次ぐ間違いのドタバタ喜劇は、作者の没後400年が経った今でも、真夏の人気上演作品である。演劇やシェイクスピアが好きな人なら、ロンドンのグローブ座で鑑賞したという向きもあるだろう。しかしこの有名な作品の有名な誤解は、作品の舞台がいつ、どこに、設定されているのかである。

A Midsummer Night's Dream

どこに、という問題は作品の序盤の部分で明らかにされる。テセウス大公(英名シーシアス)の宮殿へ、「アテネのいにしえの法」、つまり親の命令に背く娘への死刑執行を求めて訪れる父親の台詞により、ここがギリシャのアテネであることが明らかとなる。アテネの森というよりはイングランドのアーデンの森を髣髴とさせる描写が多く、そこに住む妖精たちもブリテンの妖精パックを筆頭に、イギリス風の妖精たちであるが、そこはファンタジー作品なので、何もかもギリシャ風にしなければならない理屈はない。

次にいつなのか、という問題であるが、これは作品の終盤で明らかにされている。テセウスが早朝に森の中で恋人たちを発見して、バレンタインはとっくに終わったのに、今のこの時期に‧‧‧と述べるくだりである。

ところが、なぜかこの作品は夏至の前夜のことと紹介されることが多い。もちろん、原題も和訳も「真夏」であり、夏至の頃の花々の話や、夏至祭(聖ヨハネ祭=6月24日)とも共通する精霊たちの出現、森の中での男女のロマンスの話が出てくるのであるから、テキスト中には夏至という言葉は出てきていないにしても、まず夏至祭で間違いないはず、ということなのか、注釈には夏至祭についての解説がついていることも多い。ところが、物語の設定は五月一日なのだ。

The rite of May(五月の祭典)というテセウスの直接的な表現のほか、ヘレナの背の高さがMay pole(五月柱)に例えられ、A morn of May(五月の朝)、という五月祭への言及も見られる。この日の夜はテセウスの婚礼の夜でもあるが、月夜のはずが月が出ていないというハプニングにも見舞われている。一日とは太陰暦で朔日、つまり新月の日であることを考えると、月が出る方がおかしいが、ともかく劇中では月が出ていない、すなわちこの日が朔日であることが示唆されている。シェイクスピアは随所随所で森の中の出来事は五月一日の前夜に起きた物語であると明言していることになる。冒頭で次の新月まであと5日だとヒポリタが述べるが、作中ではいつのまにか時が流れ、終盤では五月祭当日になっているが、これはシェイクスピア一流の三一致(時、場所、筋)の完全無視である。


五月祭 The rite of May

五月一日は現代では主に労働者の日(メーデー)であるが、シェイクスピアのこの作品でも、主役の恋人たちに負けず劣らず舞台を盛り上げるのが、ボトムやスナッグ、フルート、クインスらまちの職人たちである。前半のボトムらの調子はずれぶりがないと、後半のクライマックスが感動的なものとはならない。セリフも間違いだらけ、演劇には素人の面々による下手な芝居であるにも関わらず、テセウスが快く許しを与えるだけの何ものかが存在していたのだ。そう考えると、シェイクスピアがこの作品の設定に五月祭を選んだのは、実に作品の趣旨にも適い、時宜にもかなったことであった。

五月祭の起源はBealtaine(ビャルタネ、英語発音はベルテーン)というケルトの節気で、家畜の健康と繁栄を願い、火の中をくぐらせて、夏の到来を祝う祭典だった。ケルトの暦では季節の変わり目は2月1日、5月1日、8月1日、そして11月1日となっており、日本とは季節の感覚がずれているが、冬の訪れの早いブリテン諸島ではしっくりくる区分である。シェイクスピアの時代のイングランドでは、朝早く森で詰んだ草花をメイポールに飾り、その周りを回りながら踊るモリスダンスや、五月祭の女王メイクイーンを選出するなどの行事が行われていた。ケルトのベルテーンは、11月1日同様、先祖の霊が地上に戻る夜であり、妖精たちが好んで出没する夜でもある。

それにしても、夏の始まりが5月1日からであるので、この日をいきなり夏真っ盛りとするのは少し気が早い。

"What fools these mortals be!" --Puck
人間どもはなんと愚かなのか! --パック

なぜ五月一日が真夏なのであろう。

この問題は古くから様々な憶測を呼んできた。1595年頃書かれた原作のタイトルはA Midsommer Nights Dreameであり、現代と同じく当時の英語でもmidsummerは真夏である。シェイクスピアの全集を編纂したかのサミュエル・ジョンソンも、作中で五月祭だとされているのに、タイトルが真夏となっているのはどうにも解せなかったようだ。そのため邦訳では『夏の夜の夢』とされることもある。思うにこれはAmid Summer Night's Dream(夏の夜の夢の中で)にかけた言葉遊びであり、作中で人々が様々な間違いを犯すことに言及したものなのではないか。

この作品では、ボトムやフルートはしばしばセリフを言い間違える。目がものを言い、耳がものを見る、といった類の単純なものだが、これはセリフをただ丸暗記して、うろ覚えのまま喋るからであろう。また、劇中劇で月が恋人たちを照らすシーンでは、あらかじめ月の暦をチェックして、婚礼当夜は月が出ることを確認したはずなのに、実際には月が出ていない。冒頭でも今度月が出たら、と言っているので、どうやらカレンダーが間違っているらしい。一方主役の恋人たちの方は、妖精パックの早とちりのせいで、恋の相手を取り違えてしまう。さらに森の妖精の女王ティターニアは、こともあろうにロバ男(実は変身したボトム)と間違いを犯してしまう。

そもそも、父親の命に逆らう娘ハーミア、夫と覇権争いを繰り広げるティターニアも強情、傲慢という間違いを犯し、それに対する過酷すぎる罰を与える父親や夫の方もまた大いに間違っていたのだ。人間とは(妖精もまた)、パックが言うように愚かなものだからだ。しかしテセウスはなかなか度量の広い大公で、冷酷なハーミアの父親を説得して考え直させ、ボトムらの不味い芝居も快く受け入れてやる。そしてハーミアら四人の恋人たちと共に、自らも幸福な婚礼の夜を迎える。物語のラストは、この作品そのものが、儚い一夜の夢だったと思って、様々な落ち度を許して欲しい、とパックが締め口上を述べて終わる。

こうしてみると、作品の日時として五月一日の前夜が設定されているのに、タイトルは真夏の夜と、わざと誤解を生じさせるミスリーディングなものであるのも、作者の狙い通りなのかもしれない。五月祭と夏至祭を故意にごちゃ混ぜにして、読者を混乱させ、草葉の陰でほくそ笑んでいるのではないか。そしてこの作品の人物たちのように、相手の非を責め立てるのではなく、きっと自分が悪い夢でも見ていただけなのだ、と言ってお互いを許し合う者たちを、祝福しているのかもしれない。

© 2025  Paraiba  Books
Shakespeare, A Midsummer Night's Dream 
Powered by Webnode Cookie
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう