7月の小説
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
Emily Brontë, Wuthering Heights
1818年7月30日ヨークシャー・ソーントン生まれ、1848年12月19日同ハワースにて没。生前はエリス・ベル(Ellis Bell)のペンネームで詩集や唯一の長編小説『嵐が丘』を出版。姉シャーロット、妹アンを合わせたブロンテ三姉妹(実はブランウェルという兄もいる)の次女。苗字にウムラウトがつきドイツ語風の表記なのは、アイルランド系移民の牧師である父パトリックの意向による。
長年英文学の金字塔とされてきた『嵐が丘』だが、近年は姉シャーロットの『ジェーン・エア』も評価が高く、生前同様、死後も姉妹で仲良く競い合っている。シャーロットの作品が自身の幼少期を描いた自伝的色彩が濃いのに対して、エミリーのは奔放な想像力の世界が描かれ、ジョルジュ・バタイユはこれを「悪の文学」の系譜に入れている。アメリカで今なお人気の高い『偉大なるギャッツビー』は、この作品の焼き直しといってよい。
『嵐が丘』の原題のWuthering Heightsとは、ヨークシャー地域の方言で風がざわざわいう丘という意味で、ハワース近郊のヨークシャームーアという荒野を舞台のモデルとしている。キャサリンの亡霊の話で始まり、キャサリンとヒースクリフの亡霊の話で終わるこの物語は、二重の語り手によって語られ、親子二代にわたる時間の流れも相まって、複雑な構成をなす、エミリー渾身の作である。
あまりに込み入っているので、『ヒースクリフは殺人犯か?』というエッセイも書かれたぐらいだが、その真偽のほどはさておき、夏の暑さを吹き飛ばす冷気を感じさせる作品であるのは間違いない。

It would degrade me to marry Heathcliff, now; so he shall never know how I love him; and that, not because he's handsome, Nelly, but because he's more myself than I am. Whatever our souls are made of, his and mine are the same. --Wuthering Heights
今となってはヒースクリフと結婚することは私の身を落とすということ。だからあの人は決して私がどれほどあの人を愛しているか知ってはならないの。あの人がハンサムだから好きな訳ではないのよ、ネリー。あの人が私以上に私そのものだから愛しているの。私たちの魂が何でできているのであれ、私とあの人の魂は同じものでできているのよ。--『嵐が丘』
ヒースクリフが出奔する原因となった、家政婦ネリーとキャサリンの会話。
ヒースクリフは元はキャサリンとヒンドリー兄妹の父アーンショー氏に保護された浮浪児で、キャサリンとは実の兄妹のように育てられたが、ヒンドリーはそれが気に入らず、父亡き後家督を継ぐと、ヒースクリフを使用人の立場に落とす。教育も受けられず、馬丁として使用人部屋に暮らすことになったヒースクリフは、それでもキャサリンとは同じ魂を共有する者同士、気やすく接していたが、やがて裕福な紳士エドガー・リントンと出会ったキャサリンは、自分の身分と立場を守る意味もあって、ヒースクリフとの決別を選ぶ。
その昔のイングランドでは、中流以上の家庭の娘は事実上結婚するか、学校の教員または家庭教師になるかしか、生活していく方法がなかった。結婚相手の身分が釣り合わない場合、恋愛結婚をしてもたちまち生活に困窮することになる。キャサリンは両親が他界して兄ヒンドリーの保護下にあり、自身の財産は所有していなかったため、ヒンドリーの嫌うヒースクリフと結婚することは、家を追い出されることを意味する。ヒースクリフに十分な稼ぎが期待できない以上、キャサリンは今の暮らしを維持することができなくなる。
19世紀英国小説で女性と結婚の話が大きなテーマとなっているのは、このような、女性の自立の問題と大きく関わっている。ヒロインが裕福な男性との結婚を選ぶ小説とは異なり、作家エミリーはその30年の生涯を未婚で終え、唯一の小説も不評に終わった。一方、家庭教師として自立し、後に伯父の遺産を相続する幸運にも恵まれるジェーン・エアをヒロインとした姉シャーロットの方は、作家としての地位を確立した後に結婚もしている。彼女らの先輩女性作家に『高慢と偏見』のジェイン・オースティンがいるが、やはり文筆だけで身を立てるには至っていない。同年代の男性詩人・作家たちがパトロンやパトロネスを得て文筆活動に専念できたのに比べると、女性作家は不遇に喘いだ時代だった。
しかしエミリー・ブロンテの鋭い点は、女性の問題だけでなく、男性もまたいかにして生きていくかが大きな問題となっていたことを意識していたところである。イングランドのような明確な階級社会で、孤児で教育もない使用人であるヒースクリフが出奔した後、いったい何をして生計を立て、「紳士」(たとえ財産面だけにせよ)にまで成り上がったのかについて、作中ではほとんど触れられることはない。裕福な紳士となった後のヒースクリフの冷酷な復讐鬼ぶりから察するよりないが、公にはできないことを色々と行ったのであろうことは推測できる。このような悪のヒーローを描く女性作家としては、他に『フランケンシュタイン』のメアリー・シェリーがいるが、悪のヒロインを描いたサッカレーの『虚栄の市』や、ワイルドの『サロメ』などに比べて、女性作家の方がリアリズムに徹している感がある。それだけに、恐怖もひとしおだと感じるのは、私だけだろうか。