8月の天文学
宮澤 賢治 銀河鉄道の夜
1896年〈明治29年〉8月27日 - 1933年〈昭和8年〉9月21日)岩手県花巻出身の詩人、童話作家、思想家、エスペラント学者、農学者。表題作の他、「雨ニモマケズ」、『風の又三郎』、『注文の多い料理店』などで知られる賢治だが、もともと農芸化学を専門に勉強し、農学校の教師をしていたということもあり、科学者としての顔を持つ。『グスコーブドリの伝記』『貝の火』など、科学の知識に裏打ちされたファンタジー作品は、文系の作家にはない独特の趣きを湛える。また、法華教系の国柱会に傾倒し、世界全体が幸せにならないうちは個人の幸せはない、という思想の下活動する宗教家としての側面も持ち、自己の利益のみを追求する者を厳しく批判する作品、利他の精神を貫き自己犠牲を厭わない人物を描く作品も多い。
天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけあいけないって僕の先生が言ったよ。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
ケンタウル祭の夜、からすうりの灯りを流しに川に行ったジョバンニは、ザネリやクラスの他の子らに父親のことでからかわれ、耐えきれず天気輪(何のことかは不明)の丘に駆け上る。やがて視界がかすみ、気づいたら銀河鉄道に乗っていたジョバンニは、目の前の席に親友のカムパネルラが座っているのを確認する。銀河ステーションから始まり、天の川に沿って北から南に駆け抜ける道中で、不思議で美しい光景を次々と目にする二人だが、やがて二人の前に新しい乗客が乗り込んでくる。客船の沈没時に、自分より小さな子供たちを先に救命ボートに乗せ、自らはこの銀河鉄道に乗り合わせることになった6歳の少年と12歳の少女、そしてその家庭教師の青年。その話を聞いて、ジョバンニは自分には何ができるか考え込む。やがて対岸にさそりの火が見えると、あれは生前の身勝手な行いを悔いたさそりが、空に上げられてまわりを自分の火で明るく照らしているのだと聞かされる。サザンクロスの停車場が近くなった時、まだ降りたくないとだだをこねる少年を見て、もっと先まで乗って行こうと誘うジョバンニと、ここがほんとうの神の天上に至るところなので降りなければいけない、と言う少女と青年との間で本当の神に関する言い争いが始まるが、少年たちはそのまま降りて行き、ジョバンニとカムパネルラは旅を続ける。やがて車窓には石炭袋と呼ばれるぽっかりと開いた暗い空間が見え、ぞっとしたジョバンニは、カムパネルラと二人一緒にどこまでも行こうと約束を交わす。ところが直後にカムパネルラは綺麗な野原にみんなが集まっている、あそこが「ほんとうの天上」で、母親もいるのが見えると言い出し、ジョバンニを一人残して、消えてしまう。ジョバンニにはぼんやり白く煙った空間が見えるばかりで、咽喉いっぱいに泣き叫ぶ。ふと気づくと、ジョバンニは天気輪の下にいて、自分が夢を見ていたことに気づく。地上では救急車のサイレンがけたたましく鳴っており、ジョバンニはカムパネルラが落水したザネリを助けるために川に飛び込み、流されて行方不明となっていることを知る。ジョバンニは、カムパネルラがどこへ消えたのか、ここで悟ることになる。自分もカムパネルラのように、人のために生きたい、との思いを新たにした時、薔薇色の夜明けが訪れる。
ケンタウル祭の夜
ケンタウル祭とは、架空の星祭りであり、作中では「一年に一度の星祭り」とされている。ギリシャ神話に登場する半人半馬のケンタウロスにちなみ、夏の南の夜空を彩る南十字星のすぐ横にあるケンタウルス座を鑑賞する祭のようであるが、作中では「青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜」を取りに行くという描写がなされる。ケンタウルス座をはじめ、作中に登場するはくちょう座やこと座、さそり座など夏の星座が並び、からすうりで「青いあかりをこしらえ」るとあるので、まだ赤く熟す前の小さな青い実をくり抜いて、中に小さなろうそくでも入れて灯りとするのであれば、こちらも夏の季節の描写とみてよい。他にもいちいの葉の玉を作ったり、ひのきの枝に灯りをつけるなどとあり、どうやらまだ木々も青々とした季節のようだ。一年に一度の星祭りという表現からは七夕も連想されるが、日中には学校の授業のある季節であり、イタリアが舞台であるとすると、少なくとも7月とか8月ということはなさそうだが、季節の特定は思いの外難しい。しかもジョバンニの父親は間もなくラッコの上着を土産に、北の海から帰ってくるという。ただ、カムパネルラの台詞が、今は晩夏から初秋の頃、月で言えば9月頃であることを示している。
ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。
空気が澄んで水のように流れている街には、プラタナスに豆電球の灯りがともって、まるで人魚の都のようであり、新しい折り目のついた服を着た子供たちが、星めぐりの歌を口笛で吹いたり、「ケンタウルス、露を降らせ」と叫んだりしている。
ケンタウロスは前述のように半人半馬で、好色で酒好きの暴れものであり、サテュロスと同一視されることもある種族だが、英雄アキレウスの教育係であったケイローンというケンタウロスは異例の存在で、医術の知識を持つ賢人とされている。ヘラクレスの放った毒矢に打たれ、不死の身で苦しみが続くことを哀れんだゼウスによって天に上げられ、いて座となったという。露を降らせというのは雨乞いの歌であろうが、ケイローンにしろ通常のケンタウロスにしろ、雨を降らせる能力があったという伝承はないようだ。

ケンタウルの村
大変紛らわしいが、ケンタウロス族のケイローンがモデルとされるいて座はケンタウルス座とは別の星座で、天の川の中心あたりに見られ、すぐ隣にはさそり座がある。一方、ケンタウルス座は南十字星の隣にある星座で、作中で「ケンタウルの村」が登場するのがサザンクロスの手前であることを考えると、やはり賢治の脳裏にあったのはケンタウルス座の方であろう。とうもろこし畑が続き、新世界交響曲が響き、キラキラするダイヤモンドや、赤や緑に光る穂先の美しい高原の先に見えるさそりを通り過ぎて、賑やかな楽の音や人々のざわめきが聞こえ、ケンタウル祭が開かれているまちがそれである。クリスマスツリーのように豆電球を灯された唐檜かもみの木が立っているとされるその村は、プラタナスに豆電球が灯された人魚の都のようなジョバンニの住むまちとパラレルなつくりになっていることが分かる。
物語の舞台とされるイタリアでは、ケンタウルス座も南十字星もほぼ見えないにも関わらず、星祭りの名前がケンタウル祭である理由は謎だが、賢治が自らの二面性を投影しているため、とする説もある。人と獣の二面性を持つケンタウロスのように、普段は優しく友達思いのカムパネルラは、今夜はいじめっ子たちとつるんで星祭りに出かけてしまい、銀河鉄道の車中でも途中で乗ってきた沈没客船の乗客の女の子と仲良くおしゃべりして、時にジョバンニの胸を嫉妬で苦しませる。しかしカムパネルラが『太陽の都』を著したユートピア思想家トンマーゾ・カンパネッラに由来する名前であり、ジョバンニというのがカンパネラの幼名であることを考える時、ジョバンニとカムパネルラとは言わばお互いの分身であり、影と実体のような存在であることが分かる。カムパネルラはジョバンニの理想を体現した存在であり、一方カムパネルラにはジョバンニのような支持者が必要なのである。ちょうど、いて座とケンタウルス座が、互いに互いを座標として必要とするように。
見えるものと見えないもの
ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつから見てもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。
この作品には分身のテーマの他にも、見かけと本質、在と不在、彼岸と此岸といったテーマが見え隠れする。天の川は一見すると乳の流れのようだが、実際には星の集まりであること、まちを流れる川はちょうど天上の天の川のようであり、あまりに空気が澄んでいるため街には空気ではなく水が流れているように見えること。タイタニック号沈没を彷彿させる客船沈没の際の家庭教師らの行動と、カムパネルラの川への飛び込みとのパラレル性。天の川では目の前に確かに存在しているはずのものも、地上からはがらんどうに見えてしまうのではないかという時空論。いずれも科学的事実、観察結果、理論などに基づいてはいるが、哲学的な示唆に富む。イタリアあたりの北半球からは見えないケンタウルス座の名前を敢えて星祭りの名前にしたのは、ケンタウロスの半人半馬的二面性というよりは、目には見えないが実在するもの、実在するかは分からないが存在すると推測されるものについて思いを巡らすためではないだろうか。
天の川の中心あたりに位置するいて座と、中緯度以上の北半球からは見えないが、低緯度地方からは見えるケンタウルス座。監獄に入れられたジョバンニの父親と、鳥だといって砂糖菓子を配る怪しげな鳥捕り。カトリックの尼さんの降りる北の十字架と、沈没線の乗客の降りる南の十字架。カムパネルラの家で遊んだアルコールで動く模型の列車と、動力もなしに動く銀河鉄道、あるいは地上の軽便鉄道と、銀河鉄道。からすうりのあかりと、星明かり。理想と現実。夢と希望。様々なものが比較対照され、あるいは対置され、あるいは並置され、あるいはイメージが増幅される。お盆で空気の澄んだ夏の夜空はそんなことを何ということもなく思い浮かべつつ、星々の観察をしてみるのに向いている。