読書に勤しむ秋?
ノーベル文学賞決定
今年はハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースローが受賞。京都に半年間招聘プログラムで滞在するなど、日本との縁も浅からぬ作家ということで、いざ入手して読んでみようとするも、アマ○ンでは「入手できません」と表示されてしまい、入手不可能。英訳ならハードバック、ペーパーバックともに在庫があるものの、地方へ届くのは早くても一週間後。英訳は電子書籍バージョンもあるものの、電子書籍を読むのは目が疲れる上、タブレットそのものが物理的に重い、機器の操作性が悪いなど問題が多い。そのため図書館をあたってみたが、地元の図書館には入っていなかった。そうなると、タイムリーに読むにはやはり英訳の電子書籍一択ということになる。
だが、文学作品はタブレットで流し読みするようなものではなく、紙に印刷された文字を追うごとに、何度か行やページを行きつ戻りつして意味や文脈を確かめつつ、登場人物や重要事項を常に頭の中で思い出しながら、自分の解釈も含めて理解し、読み進めるもの。そして、できれば英訳ではなく日本語訳で読みたいところだが(英訳では外国の作品中の固有名詞の発音の仕方が分からない上に、訳者や学者による解説がついていない)、日本語訳は電子書籍にはしないという約束でもあるのか、何一つ電子書籍になっていない。地方在住者のリアルタイムでの対処の難しさを思い知らされることとなった。
仕方がないので幾つかの作品についての報道や口コミなどを読んでみると、カフカとかベケットの系譜の、一文がやたらに長い、大変読みにくい作家のようである。ノーベル賞の選考委員が原語で読んでいるということは考えにくいため、英訳版をもとに審査・決定していると思われる。しかし選考委員が電子書籍を読んでいるとは思えない。何故なら、電子書籍では以下のような見た目になってしまうからである。
ここに示された部分には、ピリオドがない。では次のページにあるのかとページを繰るも、なかなか見つからない。そのうち目はチカチカするし、こういう作品こそ、紙のページでないとじっくり腰を据えて読むことができない、と感じさせられる。
始めから読者を選ぶタイプの作家であることが、これでよく分かる。
純文学とはそもそもそういうものであるから、文体が凝っていたり、使用する語句が新奇なものであったり、構成が複雑であったりすること自体は、別に問題ではない。問題は、こういう作品を電子書籍にして、こと足れりとする売り手側の姿勢である。大量に売れそうもない作品など、出版のコストがかかり過ぎて紙の書籍にするのを嫌がる、という風潮は今に始まったことではない。
そもそも(純)文学作品が多くの人に読まれるということ自体、過去の話になってしまっている。それはある意味、日本という国が平和な証拠でもあり、必ずしも悲観的な側面ばかりを表しているということでもない。戦中戦後(という言葉も古くなったが)には生きる糧であったものが、今では昔話の道具となり果てているからといって、直ちに日本人の民度が下がるとか、国が荒廃するということには直結はしないだろう。
現に、ノーベル賞を決定するスウェーデン自体が、文学が盛んとは言い難い。重税にも関わらず、というよりはそのおかげで、福祉や医療、教育が発達して人々の暮らしはレベルが高く、幸福度は概ね高い。しかし高い教育を受けて高収入な職についても、むしろその故にこそ、何か満たされないと感じる人々は、やはり一定数いる模様である。
「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出る言葉の一つ一つによりて生くる者なり」 マタイによる福音書第4章4節
(Man shall not live by bread alone, but by every word that proceedeth out of the mouth of God.)
「健全なる精神の健全なる身体に宿らんことを祈るべし」 ユウェナリス『風刺詩集』第10編356行
(orandum est ut sit mens sana in corpore sano)
どちらも、物質的、物理的満足だけでは人の精神は満たされないことを言い表したものとして有名である。
本を読むということは、満たされないこころを何とかして満たそうとする行為に他ならない。その何かが欠けているという感覚は、美味しい食事や、楽しい娯楽や、やりがいのある仕事や、家族やベットとの和やかな時間などといったものだけでは癒すことのできない、人間存在の根幹に関わる事柄である。
それは究極のところ、自分とは何者か、自分はどのように生きたいのか、という哲学的な問題に行き着くものなのだ。自分はこの世において何をなしたいのか。それを他人から期待されていることと一致させるにはどうしたらいいのか。そのような問いに対する答えを得る方法として最良の手段は、他人の人生を参考にすることである。それも自分とは全く利害関係のない、赤の他人の書いたものの中にこそ、純粋なこころで受け止められる人生の鍵が隠されている。
純文学とはそのような人生の根本の問いに答えるものである。そして純文学の作家とは、自らの探究の末に得た何ものかを、他者へと分け与えるものである。従って電子書籍でさっと一読して終わりにするのには向かない。そうではなく、紙の本を傍に置いて必要に応じて書き込みをしたり、気になるところを集中的に読み返したり、他人に貸し与えて感想を述べ合ったりするのに向いている。そうすることでより理解が深まり、自分の人生が豊かになる。純文学とはそういう力を持つものだ。
それは映画を観るという行為に似ているかもしれない。一人でさらっと観て完結してしまうのではなく、他人と感想をシェアすることで新しい観点が得られたり、時には新しいアイディアが浮かんだりする。同じものを読んだり観たりしても人の考えることは十人十色。そしてどれが正しい読み方、見方なのかについては正解はない。自分が何か見落としたり、文化的な背景を知らないために言葉の意味を誤解している、というような間違いは存在するが、きちんとした知識と根拠に基づいた解釈であれば、それは正しい解釈なのであり、それが即ち自分の問いへの答えなのである。
この時期になっても季節外れの暑さで台風は来るし、なかなか灯火親しむ読書の秋とはいかないが、夏の喧騒の鎮まりとともに発表されたノーベル文学賞。せっかくなので、久々に本格的な文学の香りのする今回の作家の作品を少しずつ読んでいきたい。唯一の日本語訳はまもなく中古市場に出回るだろうが、しばらくは高くて手が出せないかもしれないが。
